人食いザメという迷信を信じる人たち
サメ好き、サメマニアと呼ばれる人々には、グッズ集めなどのライトな方々から解剖や標本作りにいそしむコアなファンの方々までいらっしゃいます。
そんなマニアの究極形態を考えた時によく言われるのは、
「サメに食べられることを望む」
という言説で、ある種サメマニアではない方々の思い至る結論のようです。
実際にそんな考えのマニアがいるとしたら、その方はサメを本当に愛する人ではないと私は断言します。
なぜなら、サメを本当に愛し知り尽くした人物であるならば、そんな短絡的な結論でサメ好きを昇華するなんていう下らない発想に至らないはずです。
サメは世界に500種以上いることが知られていますが、人間を襲う可能性のある種は5%にも満たないだろうと言われています。さらにいえば致命傷を負わせられる種は10種にも満たないでしょう。
人間が海にただいるだけで襲われる種は、恐らくほとんどないと思われますが、サメに刺激を与えた場合なら(音やニオイ)接近される可能性は高まり、水中でエサかどうかの判定の末に攻撃されることになります。
エサとして攻撃されるわけではなく、エサかどうかの判定で攻撃されるとは何か?
サメは、かなり用心深い生き物でもあり人を見たら逃げてしまうことの方が多いと経験を積んだダイバーは知っています。
故に、近づくということは空腹状態、エサを探索している状態ですと、口に入るものをエサかどうか試し噛みをすることで、 味によってその後食べるかどうかを判断するのです。
サメがぐるぐると獲物の周りを旋回するのは、用心深く観察している最中でもあるのです。大型のアシカやアザラシを襲うようなサメは、相手が弱るまで追撃をしないものもいるようですから、反撃を喰らうリスクを恐れず一発で致命傷を負わせるような危険な賭けはしないのが普通です。
ただサメが攻撃する好条件、例えば水が濁っていたり、日が落ちて視界が不良だったりすると、サメは積極的に狩りへと転じます。なぜなら、相手から自分の姿を悟られる心配がないので奇襲をかけやすくなるためです。
話はそれましたが、サメは本来積極的に人間を襲う生き物ではないはずなのに、そのサメへの歪んだイメージを肯定するようなことを真のサメ好きはすべきではないというのがサメが好きな私の考えです。
「サメがただあなたを傷つける存在」と貶める行為であり、これははっきり言って本当にサメが好きな人間の至る発想ではないと断言できるでしょう。
サメを歪んだ眼差しで見ているからこそ生まれる発想であり、これは[サメ好き]ならば絶対に避けなくてはならない行為なのです。
サメの素晴らしさ、生き物としての高尚さをサメ好きならば高らかに謳い上げるべきです。サメというものが含む、バリエーションの豊かさ、神秘性、他の生き物にはない洗練された部分、世界でサメを信仰の対象にするようなカルチャーを見れば、自分を生贄にするなんてことがどれほど愚かしいことか、考えを振り返る余地はいくらでもあります。
仮にも4億年の歴史を携えた生き物がたかだか400万年(100分の1)ほどの猿の延長線上でしかない動物に自分からエサになってもらうなど片腹痛い行為です。
かつて小説「JAWS」を著したピーター・ベンチリー氏は、映画化された作品によって人々のサメ観が相当に歪められたことを非常に後悔し、晩年はサメの保護活動や啓蒙に力を入れた活動をされていたそうです。
これは懺悔なのでしょうか。
否、それはサメを真に知ることの方がサメによって恐怖を生むことよりも価値のある行為だと氏が気付いた故のことでしょう。
私は、過激な保護活動を支持しないサメ好きですが、サメを知ろうとする、知らせようとすることそのものを否定はしません。もしサメに対して間違った行為をしているのならば、それはサメをまだよく知らないが故の過ちとでもいうべきもので、「まだ私はサメのことをよく知りませんよ」という謙虚さに欠けた行為だと自覚すべきなのです。
私など研究者でもなんでもない、マニアの端くれの端くれみたいなカスですが、それぐらいのことは分かっているつもりです。
サメをまっすぐに見ることはさほど難しくはないのです。サメの魅力に気づいてサメと対等でいようとすれば、同じ生き物として接しようとすれば、自らサメに肉体をささげることが愚かだと、すぐに至る結論ではないでしょうか。
サメが好きならばサメを食べないのでは?
またサメ好きが「サメを食べる」行為と比して、ネコ好きはネコを食べない、と言った言説にも触れることがあります。
サメは愛玩動物でなく、家族でもない、なら「食べちゃいたいくらい好き」 な行為にも思えますが、サメ食は人類起源にも遡れるほど歴史があり、特に日本では全国でサメ食文化があることからも、人間にとって価値を見出された生き物であると示すことができます。
サメとヒトとの関わりの起源を知る行為なら、むしろ積極的に食べるべきなのです。
もちろん、食文化を知る行為と種の維持そのものは相反する部分が存在しますが、価値を見出さないことによっておこる弊害の方が、サメにとっては深刻であるのです。
サメ肉などを活用しないで海のゴミとして処分されることを皆さんはご存知でしょうか。
価値のある魚だけを取る漁業は、経済性から見れば魚価がつかないサメは、ただの産廃なのです。肉は適切な処理を行わないとアンモニアを含んだものへと変わりやすいため、手間がかかるのですが、水揚げしても練り物にしかならない扱いのサメは、一部の加工地を除けばかさばるゴミでしかないのです。
そうすると、ゴミは正確な数を知るためのカウントから外れ、サメ自体の生息数への認識も不確かなものにならざるを得ません。
つまり価値のある魚であると扱われない限りサメは、いったい多いのか少ないのかさえもわからないということになります。
またフカヒレだけを得るフィニングとよばれる行為も、国際的な取り決め(ワシントン条約など)で禁止されています。 禁止することでサメを守ろうという非常に良いことのように思えるのですが、フカヒレのブラックマーケット化を促し、サメそのものを忌避する漁業の在り方を進めてしまうことにもなりかねません。
サメを知る手がかりを失うというもろ刃の剣とも言えるでしょう。学術的な調査がそれを補うためにはかなりの重荷となるはずです。
私は乱獲(オーバーキャッチ)も混獲(バイキャッチ)も肯定はしません。
ただ、無意味に採る行為、捨てる行為そのものに問題があると考え、捕れたからには利用を、過剰な漁獲は、方法が適切でないとの見直しをすべきなのでしょう。私は漁業に携わる仕事をしたことがないので、空理空論の類かもしれませんが、少なくともサメが漁獲物として扱われない限りは、資源云々という俎上にさえ上がらない段階ではないかと思います。
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サメの保護論に話はそれましたが、もしサメを守るために自分の命を犠牲にするなどという考えがあるとすれば、 あなた自身によってサメを守れる可能性を否定することになります。
サメを美しいと思う時、あなたの心も美しいと私は思います。サメを尊いと思う心があるなら、あなた自身も同じくらい尊いのだと言えます。
あなたがサメに思いを巡らす時、サメもあなたへ思いを巡らせていると考えます。
それは食うか食われるかという価値以上に、サメが私を見て何を思うか、ということを感じられれば、 自分自身の鑑となるでしょう。
私自身、サメに食べられて死ぬなんてまっぴらごめんです。
ただ土に還りたいとは思っています。自分をまた自然のサイクルへ戻すことができれば、私の命は全うされるでしょう。
でもサメを残酷な生き物のように見せる行為は絶対にしたくはありません。それがサメ好きならまず最初にたどり着く結論だと、そう難しくない思考がもたらせるはずです。
私の肉体が自然に還る時、土を経て水に至り、生命へ及ぶのならそこにサメはいるはずです。 そんな想像力さえサメは私に与えてくれます。
ただ私は海の中でサメと対面することが怖いです。食う食われるの恐怖ではなく、地上にいる度の過ぎた生命を彼らの下へ晒すことへの恐怖とでも言いましょうか、出来るだけシンプルに生きるプレデターとしての存在に圧倒されることへの畏怖です。
でもいつかは海の中で出会ってみたい。決して近くでなくてもいいから。