2019年8月10日土曜日

沖縄サメ紀行 沖縄とサメと私

 サメ好きのルーツを沖縄で見つける!
 前回からのつづきです。※前回



 沖縄の人々にとってサメはどのような存在なのでしょうか。
 沖縄の地理的位置は熱帯で、太平洋北西部から東へ及び火山を成り立ちとする島嶼域を巡る壮大な海流、黒潮の一地点です。
 赤道を境に北では海流は北東へ大きく、南では小さな島々を巡る複雑な海流で巡り、回遊魚のライフスタイルを決定づけています。

 すなわちサンゴ礁を巡る島々を住み処とする南の魚たちと大海原を回遊する外海の生き物に分かれており、太平洋域でのサメはコスモポリタンの大型サメ類とサンゴ礁の浅瀬に潜む小型サメ類(トラザメやテンジクザメの仲間)が種類も豊富です。
 最近でも新種としてハルマヘラエポーレットシャークやオオセ類が南の海域で見つかっていることから、サメの楽園ともいえるでしょう。

 サメの回遊経路である黒潮が、さまざまなものを日本列島へ運ぶベルトコンベヤーの役割を果たしていたと考えると、サメはその導き役ともいえる存在なのです。
 最近、台湾から石垣島へ丸木舟で渡海するプロジェクトが注目を集めましたが、そんな島嶼域間のリレーを世代を超えて続けてきた探究者たちがたどり着いた先が、この日本列島であるとも考えられています。

 沖縄のサメを表す地方名が、とてもバリエーションが豊富なのに驚かされます。
 ジンベエザメを「ミズサバ」、ホホジロザメを「ミンダナー」、イタチザメを「イッチョー」、オオメジロザメを「シロナカー」、アオザメを「ウキザーラ」、シュモクザメを「カシー」「イヘーサバ」、ヨシキリザメを「ゲイシャ」、ニタリを「ネズミ」、ヨゴレを「ウフバニー」、ヤジブカやクロトガリなどメジロザメ系をまとめて「ナカー」、オオテンジクザメを「タコクワーヤ」、ネムリブカを「ヒサバー」、ネコザメを「マヤーブカ」とこれだけサメを識別する呼び方があるのは身近な証拠でしょう。

 宮古島の豪族として中世に統一を成し遂げた仲宗根豊見親(なかそねとぅゆみゃ)という人物は鯖祖氏(さばそし)つまりサバをルーツに持つ一族といいます。
  サバとは、我々の知るいわゆる〆さばのサバではなく、サメの地方名「サバ」よりつけられたものです。
 これは彼らの祖先が海の民で、海で遭難しサメによって助けられたことを由来としているそうです。サメは南方民にとってトーテムと同様で、そのルーツを色濃く表すエピソードといえるでしょう。彼らは、サメを食べることをタブーにしているそうな。逆にサメを食べる文化もあるそうで、「サバのそうじり」なる干物も存在するそうです。 

 つまりサメや海洋生物ともともとつながりの深い人々が日本列島へ移り住み、交易や漁労で力を発揮した時代があったと考えるべきで、鳥取県青谷上寺地遺跡に見られるサメの刻印群は、そういったルーツを持つ人々の『家紋』であったと考えてしかるべきです。

彼らは長い航海や漁労を成功させるために、サメの持つ生命力を霊力とあがめ、それを取り込むことで自分たちの繁栄を願ったのでしょう。

 因幡の白ウサギ伝説のワニ(山陰地方ではサメをワニという)は、実は南方各地での伝承でも類似した神話があると「鮫」(矢野憲一著:法政大学出版)でも紹介されています。山陰地方におけるサメの伝承は非常に興味深いものがありますが、それはまたの機会にレポートしましょう。
 
 海を渡ったものたちが、どのように自分たちのルーツをストーリーとして語り、出会ったものに示し共通性あるいは類似性を見出し、また差異を認識したか。
 おそらく文字を持たぬ文化にとってストーリーは、絵であり造形であり舞踊であり、音楽であり、口伝なのでしょう。

  
 展示には、文字を持たぬ人々が木彫りの絵に伝承を託したストーリーボードなる文化があります。主にパラオで見られる文化のようです。
 その彫刻の一つにシュモクザメやトビエイの姿が見られました。
 それは単なる飾りや造形としてではなく、物語の登場キャラクターの位置にいるようです。
 
関節当たりの青い帯にひし形の紋様がサメの歯を表す
サメの形をした神様や、サメの霊力を宿さんがためのタトゥーなどはその最たる例でしょう。
 ポリネシアでは成人男性が自然から霊威を授かるためにその姿をかたどったタトゥーを刻みますが、サメは三角形で歯を模したものが該当するそうです。
 その人知を超えた力への畏怖とその力を持つ自然と一体化しようと自らに刻み付けた証こそがタトゥとみるべきなのです。

日本では咎人の証とみられる入れ墨は、大陸文化による価値観で、南方ではイニシエーションの洗礼を受けたものとしての証でもあります。皮膚に傷をつけワニ肌のような隆起した皮膚を持つに至る成人儀式のVTRなどは、端的な願いを形にしたものと教えてくれました。
 精神的な拠り所として沖縄に彼らを導いたのは、もしかしたら太平洋で回遊をしているサメだったのかもしれません。

 豊かな土地で、子孫が繁栄するも棲む土地が狭くなり、おのずと他の島へ渡ることで争いや摩擦を避けてきたということが透けて見えます。あるいはもっと良い土地を求めての探究者としての血が『人類回遊』ともいうべき太平洋進出の原動力であったと。
つまり常に海民は、子孫を外へ外へと広げ、新たな住み処を探求する必要に迫られていたのだと言えるでしょう。
 日本で島嶼域や陸からのアクセスの悪い土地に住む人々は近年でも開拓精神を持って、近代にブラジルへ渡航したり、未開地の開拓団を結成しているのです。不思議なことに、こういった挑戦をする者の出身地が海民のルーツを含む土地であったりするのです。
 瀬戸内海、南紀などに多く見られ、私の敬愛する民俗学の良心、宮本常一氏もそのルーツを前述した瀬戸内の周防大島にお持ちなのです。

 もちろんすべての日本国民がそのルーツを備えているかといえば、そうではないかもしれませんが少なくとも土地由来の血がある程度の密度を保ったまま、他へ拡散し大陸文化との融合を果たしたのが今の日本の姿であり、神話は親和でもって互いのルーツを統合し、この辺境で生きていくことを誓った者たちの共通体験として命脈が保たれたのだと思うのです。

 日本人はどこから来たのか、というロジックが人類学や民俗学でもてはやされますが、私たちのルーツはもはや辿れないまでにチャンプルーされ、沖縄においてこそその源流は見いだせるものの、本土では大陸文化の形式的継承と皇祖を戴くきわめてオリジナルな政治体制で文化が形成されていったとみるべきでしょう。

 サメの保護政策を2015年に行ったことで知られるパラオという国がありますが、かつて大日本帝国時代の教化政策が受け入れられたのはこのサメの民の血がまだ息づいていたことの表れだとも思うのです。
 日の丸カラーを色替えした国旗が示すのは私たちのルーツに彼らの祖先をも内包することの証左でもありえましょう。

 沖縄での滞在は私自身にそれまでの生き方を問う場面が度々ありました。
 私が出会った沖縄の人々はみな、自分たちのルーツに誇りを持っているように思えました。
 この地で営みを受け継いできたことの矜持と言いますか、自分たちの生きている今が過去から受け継がれそれを自分たちもつないでいるという確かな価値観をみなが当たり前のように持っている。そんな風に感じました。

 
糸満バスターミナル近くの「食工房まほろば」さんではサメバーガーが味わえます。絶品!
私がからだ一つで沖縄南部の旅をしている際、助け合いの精神をもって接してくれる方の非常に多いことに心を打たれました。なかでもリタイアされて那覇に住んでらっしゃる伊平屋島ご出身の老夫婦と知り合い、余りあるバックアップをいただきました。本当にありがとうございました。

 本土の人間はもちろん強いルーツを持った人々も存在しますが、押しなべて同じ土地にとどまり続けたものは限られているといっていいでしょう。
 天変地異や内戦、都市の発達によって流動的になった人口がルーツの濃度を希釈してきた背景もあるでしょう。

 私たちが沖縄の人々のようにふるまえないのは、ウチナンチュとヤマトンチュの違いというよりルーツへの誇りその一点にあらわされたように思えました。
 天性より朗らかに生きる沖縄の精神は、カルチャーショックに近いものがありました。
 サメの民の末裔たちとして見えないタトゥーがその方々の心にあるのかもしれません。

 ニュースにもなった沖縄の町中に生息するサメたちを本土の私たちは不思議に思うかもしれませんが、彼らにとってみれば自分たちのルーツを示してくれるいわば古代からの生きた便りともいえる存在なのでしょう。
 ビルが建ち、人が行きかう街にいるサメもまた、かつてはサメと人が身近に暮らした南国の島であった十分すぎるほどの証人とみるべきなのです。
 私の中に生きるサメは、そんな自分たちの祖先を導き、その生き様を精神に取り入れた人々のDNAが何かの拍子に強く濃く表れた先祖返りした存在であると思います。

 確かなルーツを持って今を誇りに生きること、生き辛さを感じる日本人の心に必要なことではないかと思うのです。私にとってその一つがサメであると、この地で確信できました。はじめての沖縄は、まるで故郷のようにも思えました。サメが遠く京都に住む私を沖縄に導いた、そのことは確かな事実であります。
 ただのサメ好き、ありふれたサメを当たり前のように好きになる。その確かな動機付けが裏打ちされた旅でもありました。

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