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2023年8月4日金曜日

サメマニアはサメに食べられることを望むか?

 人食いザメという迷信を信じる人たち

 サメ好き、サメマニアと呼ばれる人々には、グッズ集めなどのライトな方々から解剖や標本作りにいそしむコアなファンの方々までいらっしゃいます。

 そんなマニアの究極形態を考えた時によく言われるのは、

「サメに食べられることを望む」

 という言説で、ある種サメマニアではない方々の思い至る結論のようです。

 実際にそんな考えのマニアがいるとしたら、その方はサメを本当に愛する人ではないと私は断言します。

 なぜなら、サメを本当に愛し知り尽くした人物であるならば、そんな短絡的な結論でサメ好きを昇華するなんていう下らない発想に至らないはずです。

 サメは世界に500種以上いることが知られていますが、人間を襲う可能性のある種は5%にも満たないだろうと言われています。さらにいえば致命傷を負わせられる種は10種にも満たないでしょう。

 人間が海にただいるだけで襲われる種は、恐らくほとんどないと思われますが、サメに刺激を与えた場合なら(音やニオイ)接近される可能性は高まり、水中でエサかどうかの判定の末に攻撃されることになります。

 エサとして攻撃されるわけではなく、エサかどうかの判定で攻撃されるとは何か?

 サメは、かなり用心深い生き物でもあり人を見たら逃げてしまうことの方が多いと経験を積んだダイバーは知っています。

 故に、近づくということは空腹状態、エサを探索している状態ですと、口に入るものをエサかどうか試し噛みをすることで、 味によってその後食べるかどうかを判断するのです。

 サメがぐるぐると獲物の周りを旋回するのは、用心深く観察している最中でもあるのです。大型のアシカやアザラシを襲うようなサメは、相手が弱るまで追撃をしないものもいるようですから、反撃を喰らうリスクを恐れず一発で致命傷を負わせるような危険な賭けはしないのが普通です。

 ただサメが攻撃する好条件、例えば水が濁っていたり、日が落ちて視界が不良だったりすると、サメは積極的に狩りへと転じます。なぜなら、相手から自分の姿を悟られる心配がないので奇襲をかけやすくなるためです。

 話はそれましたが、サメは本来積極的に人間を襲う生き物ではないはずなのに、そのサメへの歪んだイメージを肯定するようなことを真のサメ好きはすべきではないというのがサメが好きな私の考えです。

 「サメがただあなたを傷つける存在」と貶める行為であり、これははっきり言って本当にサメが好きな人間の至る発想ではないと断言できるでしょう。

 サメを歪んだ眼差しで見ているからこそ生まれる発想であり、これは[サメ好き]ならば絶対に避けなくてはならない行為なのです。

 サメの素晴らしさ、生き物としての高尚さをサメ好きならば高らかに謳い上げるべきです。サメというものが含む、バリエーションの豊かさ、神秘性、他の生き物にはない洗練された部分、世界でサメを信仰の対象にするようなカルチャーを見れば、自分を生贄にするなんてことがどれほど愚かしいことか、考えを振り返る余地はいくらでもあります。

 仮にも4億年の歴史を携えた生き物がたかだか400万年(100分の1)ほどの猿の延長線上でしかない動物に自分からエサになってもらうなど片腹痛い行為です。

 かつて小説「JAWS」を著したピーター・ベンチリー氏は、映画化された作品によって人々のサメ観が相当に歪められたことを非常に後悔し、晩年はサメの保護活動や啓蒙に力を入れた活動をされていたそうです。

 これは懺悔なのでしょうか。

 否、それはサメを真に知ることの方がサメによって恐怖を生むことよりも価値のある行為だと氏が気付いた故のことでしょう。

 私は、過激な保護活動を支持しないサメ好きですが、サメを知ろうとする、知らせようとすることそのものを否定はしません。もしサメに対して間違った行為をしているのならば、それはサメをまだよく知らないが故の過ちとでもいうべきもので、「まだ私はサメのことをよく知りませんよ」という謙虚さに欠けた行為だと自覚すべきなのです。

 私など研究者でもなんでもない、マニアの端くれの端くれみたいなカスですが、それぐらいのことは分かっているつもりです。

 サメをまっすぐに見ることはさほど難しくはないのです。サメの魅力に気づいてサメと対等でいようとすれば、同じ生き物として接しようとすれば、自らサメに肉体をささげることが愚かだと、すぐに至る結論ではないでしょうか。

 

 サメが好きならばサメを食べないのでは?

 またサメ好きが「サメを食べる」行為と比して、ネコ好きはネコを食べない、と言った言説にも触れることがあります。

 サメは愛玩動物でなく、家族でもない、なら「食べちゃいたいくらい好き」 な行為にも思えますが、サメ食は人類起源にも遡れるほど歴史があり、特に日本では全国でサメ食文化があることからも、人間にとって価値を見出された生き物であると示すことができます。

 サメとヒトとの関わりの起源を知る行為なら、むしろ積極的に食べるべきなのです。

 もちろん、食文化を知る行為と種の維持そのものは相反する部分が存在しますが、価値を見出さないことによっておこる弊害の方が、サメにとっては深刻であるのです。

 サメ肉などを活用しないで海のゴミとして処分されることを皆さんはご存知でしょうか。

 価値のある魚だけを取る漁業は、経済性から見れば魚価がつかないサメは、ただの産廃なのです。肉は適切な処理を行わないとアンモニアを含んだものへと変わりやすいため、手間がかかるのですが、水揚げしても練り物にしかならない扱いのサメは、一部の加工地を除けばかさばるゴミでしかないのです。

 そうすると、ゴミは正確な数を知るためのカウントから外れ、サメ自体の生息数への認識も不確かなものにならざるを得ません。

 つまり価値のある魚であると扱われない限りサメは、いったい多いのか少ないのかさえもわからないということになります。

 またフカヒレだけを得るフィニングとよばれる行為も、国際的な取り決め(ワシントン条約など)で禁止されています。 禁止することでサメを守ろうという非常に良いことのように思えるのですが、フカヒレのブラックマーケット化を促し、サメそのものを忌避する漁業の在り方を進めてしまうことにもなりかねません。

 サメを知る手がかりを失うというもろ刃の剣とも言えるでしょう。学術的な調査がそれを補うためにはかなりの重荷となるはずです。

 私は乱獲(オーバーキャッチ)も混獲(バイキャッチ)も肯定はしません。

 ただ、無意味に採る行為、捨てる行為そのものに問題があると考え、捕れたからには利用を、過剰な漁獲は、方法が適切でないとの見直しをすべきなのでしょう。私は漁業に携わる仕事をしたことがないので、空理空論の類かもしれませんが、少なくともサメが漁獲物として扱われない限りは、資源云々という俎上にさえ上がらない段階ではないかと思います。

 ※     ※     ※     ※

  サメの保護論に話はそれましたが、もしサメを守るために自分の命を犠牲にするなどという考えがあるとすれば、 あなた自身によってサメを守れる可能性を否定することになります。

  サメを美しいと思う時、あなたの心も美しいと私は思います。サメを尊いと思う心があるなら、あなた自身も同じくらい尊いのだと言えます。

 あなたがサメに思いを巡らす時、サメもあなたへ思いを巡らせていると考えます。

 それは食うか食われるかという価値以上に、サメが私を見て何を思うか、ということを感じられれば、 自分自身の鑑となるでしょう。

 私自身、サメに食べられて死ぬなんてまっぴらごめんです。

 ただ土に還りたいとは思っています。自分をまた自然のサイクルへ戻すことができれば、私の命は全うされるでしょう。

 でもサメを残酷な生き物のように見せる行為は絶対にしたくはありません。それがサメ好きならまず最初にたどり着く結論だと、そう難しくない思考がもたらせるはずです。

 私の肉体が自然に還る時、土を経て水に至り、生命へ及ぶのならそこにサメはいるはずです。 そんな想像力さえサメは私に与えてくれます。

 ただ私は海の中でサメと対面することが怖いです。食う食われるの恐怖ではなく、地上にいる度の過ぎた生命を彼らの下へ晒すことへの恐怖とでも言いましょうか、出来るだけシンプルに生きるプレデターとしての存在に圧倒されることへの畏怖です。

 でもいつかは海の中で出会ってみたい。決して近くでなくてもいいから。   

2016年3月24日木曜日

海遊館サメ講座 参加レポートその2

お待たせしております、海遊館サメ講座の続編をアップいたしました。
例によって、サメ好きのおっさんが嬉々として燥ぐ様を克明に記録したドキュメント仕様です。

海遊館サメイベントレポート その2
 
ご感想などいただけましたら幸いです。

全三回の予定でございます。次回完結編おたのしみに!

2016年1月9日土曜日

ホホジロザメが飼育できるか本気で考えてみた



ホホジロザメの飼育。


おそらく、サメ好きならば一度や二度はその夢想をしたことがあるかもしれません。

すでに聞き及んでいる方も多いと思いますが、沖縄美ら海水族館でホホジロザメ(沖縄名:ミンダナー)のオスの成体が、4日間展示されていたようです。






搬入の経緯などは公式にもされているので割愛しますが、三日間、同館のオオメジロザメ(沖縄名:シロナカー)やイタチザメ(沖縄名:イッチョー)のいる「危険ザメの海」水槽で見ることができたとのこと。

見ることができた人はラッキー…とはあまり言いたくはないのですが少なくとも貴重な体験であったことは間違いないでしょうし、海の王者をその目に焼き付けることができたことは、サメが恐ろしい生き物以上の存在であると知る機会であったでしょう。

しかし、美ら海水族館は最初から飼育がうまくいくと思っていたのでしょうか。
本気でホホジロザメを飼うということにどれほどの覚悟があったでしょう。


ここに一冊の本があります。

昭和63年発刊の「水族館動物図鑑 沖縄の海の生きもの」と題された図鑑です。
発行者は「国営沖縄記念公園水族館」、つまり現:美ら海水族館の前身です。

この図鑑の特徴は、単に沖縄に生息している海の生きものを並べただけではありません。
ここには、水族館がいかにして生き物たちと対峙して飼育に当たってきたかが詳細に書かれており、飼育の事績を知ることのできる貴重な文献です。

珍しいサメをどれほど生かし、飼育を試みてきたか、少し荒っぽくさえ思える記述が並びます。
「○○ザメ、同居のサメに食われ、3日で死亡」といった生々しい記録がさらりと書かれています。

今同じ内容でこの本を出したとしたら、いろいろ突っ込まれるのではないかとさえ思えます。
少なくとも私は初見では衝撃を受けました。
ただ、水族館に近い職種の方々には私のような新鮮さはあまりないようですが。

話を戻しますと、ホホジロザメを水族館で飼うことができるのかどうか。


現状では、生まれたてのホホジロザメが198日間水槽で飼われていたという事実以外に、「飼育」と言い為すことのできる情報はないようです。
 コラム「モントレーベイ水族館のホホジロザメ

なぜホホジロザメを水槽で飼うことが困難なのか。
一つには器の問題。
成体ということであれば、まず大きさが一つの制約となります。4m前後がホホジロの捕獲例でも多く知られることから、この大きさでもって扱いができるかという現場の経験が試されるでしょう。

次に搬入などの問題、これは生きたままサメを運び、水槽に落とし込むシステムがないといけません。いまや全国で見られるジンベエザメで、その搬入技術が飛躍的に向上したことからも、ある一定の規模を持つ水族館ではこの条件はクリアできそうです。

しかし、ジンベエと違い非常に遊泳能力の高いサメでは、いかにおとなしく運べるかということも重要です。暴れて傷ついて持たなかったサメも多くいるでしょう。
今回の美ら海に限っては、この点をどうにかパスできています。さすがというしかないです。

このことだけでも相当な経験の裏打ちを示していることでしょう。

そして継続的な飼育環境の問題。
無事水槽にたどり着いたら、今度は用意した環境に慣れてくれるかどうか。
狭いことは間違いないので、水槽の大きさを認識し、壁にぶつからず泳ぐことができるかどうか。この点がかなり重要です。

殊に、遊泳速度の速いこういったサメは、鼻からぶつかって感覚器官を傷めて衰弱することが死因となることがあるそうです。
つまりサメに対する刺激の極力少ない環境を用意せねばならないということでしょう。

動画を見る限りでは、サメなりに水槽の大きさを認識し、遊泳をしています。しかし、力強く泳げているかというとそうは見えません。

この点においては、美ら海は極めてストレスの多い他のサメとの同居を選択しました。ここに難点があると私は考えています。

サメの敵はサメ。

大型のサメになればなるほど、競合するのは同じサメ同士であることもまた事実。飼育下では万遍なくエサを与えてはいますが、食いの良さ悪さとともに水槽内のパワーバランスが保たれねばなりません。

ある水族館では、新参のサメが古老の大型魚にパクリとやられたこともあるそうです。サメだから…というのは先入観で、実際新たに生き物を投入することはエサとなる事例も少なくないようです。(前述の書籍もそういった事例が挙げられていました)

つまり、ホホジロに限っては単独飼育が望ましい、と。他の生きものを排除した状態(競合する存在がない)であればサメは環境に慣れることに専念できるでしょう。

あと私的考察ですが、サメの感覚器官を刺激しない環境を整備すること。
ホホジロは地磁気を感じて、大洋を回遊するといわれています。いわゆる電気受容の出来る感覚器官の存在ですが、その機能がサメに方向感覚や距離感覚を与えているとするならば、電子機器や磁場の発生する装置を極力遠ざける必要性も考えられるのではないかと言うことです。

磁界の発生するモーターや電気設備なしに水槽を維持することはほぼ不可能です。なので、遮断器具を駆使した低刺激の状態を想定することがそういったストレスを軽減する手段となると考えられないでしょうか。

エサについては、粘り強く与え続け、活餌や強制給餌も駆使せねばならないでしょう。強制給餌とは、ありていにいえば無理やり口にねじ込み、エサを胃袋へ通すことです。私がこのことを知った時、生き物と接することの壮絶さを知るとともに、生かすとは人間の意思ありきなのだと考えさせられました。

美ら海水族館がどういった想定でホホジロザメの飼育に踏み切ったかどうか、私が知る由はありません。偶発的な捕獲に対してどれほどの準備が可能か、恐らく普段から受け入れ態勢を整えられる環境を維持されているのでしょう。
(沖縄未訪問で、ある機会に館長さんを間近で拝見したことはありますが、面識はありません。水族館界のエンペラーとも尊称される方ですので、凡人のサメ好きでは畏れ多い存在です)

少なくとも「ホホジロザメの生きた姿を多くの人に見てもらいたい」という熱意に偽りはないでしょう。だったら、私は一匹や二匹どうにかなったぐらいであきらめてもらっては困ります。

死体を子細に解剖し、死因を突き止めるとともにあらゆる技術的人的資源に多額の費用を用いて本気を見せて欲しい。

もしそうでなければ、私は「ホホジロザメを飼育することは不可能」と言い続けなければならないでしょう。
マグロですら養殖できる時代、もはやホホジロは永遠に届かぬ遠い「おサカナさん」 ではないと思います。もはや夢想するにも荒唐無稽だとは誰も言えない。
今では観られて当たり前の無数の海の生き物が、沖縄の地で着実に飼育メソッドを育まれてきたことはゆるぎない事実なのです。

つまり美ら海水族館がホホジロザメの飼育を…

やるかやらないか(To Be or Not to Be

ただそれだけのことでしょう。
 

私ごときサメ好きが、偉そうなことを言うもんです。本当に反省しています。

ちなみに前の記事でホホジロに触れていますが、私がこの飼育の試みを知ったのは、ずいぶん後ですので誤解なきよう。

本家サイト(公開終了)