和歌山城と和歌山県立博物館(私がよく行く「和歌山県立自然博物館」ではない方の博物館)を訪れました。
和歌山城は、紀伊藩の藩主が住まう御三家のお城らしく、市の中心部ながら小高い丘に建つ立派な城郭です。現在の天守や櫓は戦時に焼失したものをあらためて復元したものです。
その和歌山城の南側に道路を挟んで現代建築の建物が居並び立ちます。
それが和歌山県立博物館と和歌山県立近代美術館です。
美術館の方は、美術の心得のない私にはあまり縁がありません。
実は博物館で催されている「企画展 鯨とり -太地の古式捕鯨-」を見に参ったのです。(現在は終了しています)
そしてミュージアムトークと称して学芸員による展示解説がうかがえるというので、その機会を狙って訪れました。
展示されている捕鯨の由来を示す古文書や、絵巻物に見られる実際の捕鯨の様子など、「いさな(勇魚)」と呼ばれていたクジラとのサシの命のやり取りがパノラマで見られました。
クジラを絵で紹介する巻物の中に、いらぎ(アオザメ)や、かせぶか(シュモクザメ)の描写もありました。(ようやくサメが出てきましたね!)
海外から指弾を受ける現代捕鯨ではありますが、組織だった古式捕鯨の始まった江戸初期に紀州では三か所の鯨組があったそうです。
太地はその中でも大名お抱えではない唯一の組織で、特に優れたチームワークを発揮したそうです。このあたりの由来や矜持を知れば、捕鯨というものに特別な思いを抱かざるを得ません。
しかしまことに残念ながら、明治期の米露の近代捕鯨の台頭によって鯨類を激減させられた日本近海でその活路を失い、さらに「大背美流れ(おおせみながれ)」という捕鯨史上最悪の災禍に見舞われ、 古式捕鯨は歴史の幕を閉じます。
この災禍をあるブログで知り、歴史小説で読み進めるうちに古式捕鯨に大変興味を持ったのです。
当日は熱心な見学者が10数名来られ、学芸員の方と質疑応答をされていました。解説トーク後は、私は予備知識も少ないので展示を丹念に見ることに努めました。
一通り展示を見た後、その裏側に当たる場所で常設の和歌山県下の遺跡などの発掘品も展示されていたので、余力のあるうちに見学しました。本来の県立博物館の展示群は、発掘した遺跡や古文書などによる生活様式や文化の紹介です。
すると縄文期の生活を示す発掘品のなかに、田辺市の高山寺貝塚のものがあり、なんとそこにはシカやイノシシの骨に混じって「アオザメの脊椎」があったのです。つまり狩猟や漁労を営み、捕れたアオザメを食べていたということです。
弥生時代のものとされるサメの椎骨(海の博物館 サメ展での展示) |
サメの歯は化石になるといいますが、脊椎も石灰化が進んでいますので大型のものはこのように形を残すようです。
そして同じようにサメの歯も展示してあると思って眺めておりましたが、それはサメの歯によく似た「石鏃(せきぞく)」、つまり矢じりだったのです。
まるでアオザメの歯のような形状をした石片が無数ありました。
これはアオザメの歯を加工したものでなく、それに似せたもので鋭い矢じりとして用をなしていたようです。ニカワで矢竹の先端に固定して使うことが多かったようです。海幸彦山幸彦のお話がこのような海と山の混在からも推し量れます。
調べてみますと、吉野ヶ里遺跡ではサメの歯から加工した矢じりが見つかったほか、岡山の遺跡でもサメの脊椎が装飾品として見つかり、 さらに大阪の遺跡でもこの「サメの歯型」石鏃は出土されたそうです。
佐賀県高志神社遺跡
岡山県彦崎貝塚(個人サイト)
大阪府大和川今池遺跡
私は決してサメ目当てにこちらへは訪れませんでしたが、結果としてサメに誘われてしまいました。それぐらいサメはありふれたものである、と思えばどうということはありません。
私たちが今ファッションとしてサメの歯を身につけるのは、こうして海に関わってきた古代人の記憶の断片を照射しているにすぎないのでしょう。
惜しむらくは、私たちは古代ほどに海の恵みへ感謝の念を抱かず、サメも食材として縁遠くなってしまったことです。
縄文人はサメをどう食べていたのか、そこまでは解説されていませんでしたが、大きな獲物だったであろうアオザメは、胃袋を満たし、装飾品や武器として生活を充足させる価値を持った生き物であったに違いありません。
現代人は、果たしてサメという生き物に価値を認めているかどうか。
鳥羽の海の博物館で、田中彰先生が語った「キーストーン種」という頂点捕食者を指す言葉がサメを見るにあたって優れた視点のひとつであると思えます。
この話はいずれまた…。
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